透明性 −虚と実−(要約)
これは、コーリン・ロウ著『マニエリスムと近代建築』の「透明性 −虚と実−」の要約です。
読み合わせ会の為に私が作ったレジュメに、
赤色で筋のつながりを書き加えたものです。
「透明性 −虚と実−」は1963年頃にロウが書いたものです。
この論文をはじめとして、アメリカに居たロウの影響で、
アイゼンマンやニューヨークファイブなどのネオコルビュジャン達が、
(虚の)透明性を空間生産の為の設計手法として使おうとしました。
彼(ロウ)自身の意図は単に一つの分析の仕方を示しただけだったのですが、
とにかくネオコルビュジャン達の作品を通して日本にも「透明性」が紹介されたのでした。
ここに書かれた虚の透明性というのは、分かりにくい面もあるんですけど、
とにかくヨーロッパでは500年以上の長きに亘って透視図法(実の透明性)
が勢いを持っていたのに対し、現代絵画は何をしたのか?、と考えてみて下さい。
現代絵画は透視図法による深さを拒否して、奥行きの浅い画面を作ったわけですけれども、
それでも見る人に色々な見え方を与えて、不思議な「奥行き」を作りだします。
これは現代絵画が透視図法の代わりに作りだしたものであり、
これが言ってみれば虚の透明性という事です。
そしてこの絵画における虚の透明性の、
建築において比肩するものが建築における虚の透明性です。
とは言うものの、
コーリン・ロウは専らコルビュジェを説明する為に虚の透明性を持ちだしたのでした。
「コルビュジェはなんでこんなにカッコええんやろう?」という事の一つの解答として
ロウは虚の透明性を持ちだしたのです。
最初から議論はコルビュジェに照準を合わせていたのであって、
「透明性 −虚と実−」は、言ってしまえばコルビュジェ論なのです。
原著(彰国社の『マニエリスムと近代建築』)を読む前に見ておくと、
筋が掴みやすくなるかも知れません。
但し本ページには写真や図版は一切ありません。
そういうのは、彰国社の『マニエリスムと近代建築』の写真・図をしっかり見て下さい。
最後に、本稿に関してはコピー、改ざん、転載、配付などが自由です。
しかし著作者の詐称は絶対にしないで下さい。
マニエリスムと近代建築「透明性 −虚と実−」レジュメ
現代建築を語る上での同義語:
「同時性」、「相互貫入」、「重ね合せ」、「両面的価値」、「時間−空間」、「透明性」
「透明」の辞書的定義:
-
光や空気を通すという物質の状態。包み隠しがなく簡単に見抜ける物も指す。
物理的な意味だけでなく人格上、道義上の意味まで持つ
■透明性とは意味が広く誤解されやすい言葉です。
現代建築の批評に書かせない言葉なのに、
この言葉に感応するその感応の内容まで我々はふだん分析しません。
ここではそれを突き詰めてみようとします。
その上で、以下に示すケペシュの定義が非常に重要です
更に突き詰めたジョージ・ケペシュの定義:
-
二つまたはそれ以上の像が重なり合い共通部分をゆずらないと、
見る人は隠れた部分の視覚上の存在を仮定せざるをえない。
このとき像に透明性が付与され、
像は互いに視覚上の矛盾や断絶なく相互貫入する。
より広義に、透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいう。
空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いている。
透明な像は近くにあれば遠くにもあるという多義性を秘めている。
モホリ−ナギが繰返し使う「透明」の意味
-
重ね合わせによる透明感は、
物質の表面に現れない構造を表面化しながら背景の透明性をも暗示する。
形態の重ね合わせとは、空間と時間を固定化させないものである(と彼は言う)。
ジェームス・ジョイスの得意な語呂合わせによって、
言語学上の透明性が生まれることを彼は指摘していた。
■モホリ−ナギの「空間と時間を固定化させないもの」とは、
透明性という現象が時間や空間の中にない(時間・空間外の)
現象である事を指しています。
ジョイスの小説には、幾通りにも取れる意味の言葉が沢山出てきます。
こういう語呂合わせも「透明性」の一つなのだ、
というのは透明性を理解する大きな鍵になります。
2つの透明性を区別しよう
- 金網やガラスのカーテンウォールなど物質の持つ固有の性質
=物理的なまたは「実」の透明性(原文:literal transparency=文字通りの透明性)
- ケペシュやモホリが主張した、ある構造のもつ固有の性質
=知覚的なまたは「虚」の透明性(原文:phenomenal transparency=知覚的な透明性)
実の透明性概念の根源には:機械の美学、キュービストの絵画がある
虚の透明性概念の根源には:キュービストの絵画だけがある
■以下、虚と実の透明性概念を探るために、
ロウはキュビストその他の絵画を沢山持ちだします。
セザンヌの「聖ヴィクトワール山」 1904-6 は、
キュビストのインスピレーションに繋がってゆく重要作品である
- 対象の分解と再構成
- 奥行きの縮小と、グリッドの強調
- 二つの座標系が重なり合う(斜めと縦横)
これらは画像を空間の広がりの中へ浮かび上がらせると同時に画面の上に定着する。
これらは更に大きな、輪郭のはっきりしない図像を構成してゆく。
この二つの座標系は、典型的なキュービストのモチーフの発端といえる。
- 明るい色の部分と、もっと暗い色の部分の対立があるし、更にセルロイドに似た物理的属性を
持った面と、半透明の面と、全く光を通さない面がある
→(*色々な見え方が錯綜し)描いている内容いかんを問わずにケペシュの透明性の定義と
絡み合っている
■以下に出てくるブラックの「ポルトガル人」の絵は、
『マニエリスムと近代建築』の中の写真が小さすぎてよく分からないと思うので、
ポルトガル人
をご覧下さい。
ピカソの「クラリネット吹き」1911 とブラックの「ポルトガル人」1911 の比較
-
- ピカソ:
-
ピラミッド型の画像が、はっきりした輪郭で背景から浮かび上がっている。
最初、奥行きとはっきりした透明感が感じられ、次に奥行きの無さに気付く。
画像とグリッドが切り離して読み取れない。
奥行きのある空間→実の透明性が見られる。
- ブラック:
-
ピラミッド型の画像が入り組んでいる。
切れ切れの線や形はまず、奥行きの無い空間を作る。
しかし次第に空間が深さを増してゆき、図像が浮かび上がってくる。
画像とグリッドが切り離して読み取れる。
奥行きがなく物理的にはっきりした像はない→虚の透明性が見られる。
ロベール・ドローネー「重ね窓」1911 とホワン・グリス「静物」1912 の比較
-
- ドローネー:
-
ガラスの実の透明性が表現されている。
ガラス窓のえも言われぬ反射性を表現。
物体は光の反射と屈折であると捉え、それをキュビストのグリッドのように用いる。
しかし雰囲気は印象派のもの。空間の境界がない。形態にひそむ曖昧性が解消されない。
キュビズムに詩的含蓄を見出そうとした。
- グリス:
-
グリッドによる虚の透明性が表現されている。
奥行きのない波打った空間。
物体と構造の強調。
無彩色に近く強い実在感を与える。
背景となる面を明確に描く。はっきりした手法を打ち出す。
キュビズムの造形を進めた。
モホリ−ナギの「ラ・サラス」1930 とフェルナン・レジェ「三つの顔」1926 の比較
-
- モホリ:
-
近代的モチーフが使われているにもかかわらず、
伝統的な前景、近景、遠景が依然として存在している。
奥行きのある空間を打ち壊そうとしているにも関わらず、
一目見ただけで全てを理解できてしまう。
モホリは素材と光に関心があった。
物質の機械美学的表現と平面的構成が実の透明性を示す
(*含蓄的な奥行きがない)。
- レジェ:
-
画像を互いに直角に、縁と直角に並べている。
平板で不透明な色彩で描き、対比の強い面により図と地の関係を作る。
隠と陽、両義的な奥行きが生まれ、
ジョイスの文章のような虚の透明性が生まれている。
はっきりした輪郭をもった形態の多面的働きを余すところなく解明(表現)している。
画像と空間の間に保たれるキュビスト特有の緊張を受継ぎ強化した。
(*そう簡単に理解し尽くせない画面の持つさまざまな含み≒虚の透明性)
■以上の比較でお分かりになったでしょうか?。
これは絵画体験がある程度ないと分からない比較で、
実感が湧かないとどうしようもない面があります。
とにかくロウは、ここで以下のような比較のまとめをしています。
実の透明性=奥行きのある空間に置かれた半透明の物体の「だまし絵」的効果と関連
虚の透明性=奥行きの浅い抽象的空間に正面を向けて並べられた物体を分節化して表現したときに生まれるもの
では建築における「透明性」とは?
-
従来の批評家は、それを素材の透明性と結びつけたがった
- (建築における透明性とは)透明であるか磨かれた面に偶然光が反射したときに見える
二重写しの中にある(ケペシュ)
- 「バウハウス校舎の全面ガラス面では、現代絵画に見られるように平面と平面が空中に
舞って重なり合う」として重なり合った面の透明性を考察した(ギーディオン)
しかし、ギーディオンの推論を視覚化したようなピカソの「アルルの女」と
バウハウス校舎を比較しても(ともに素材の透明性=実の透明性はある)、
「アルルの女」が空間構成の多義的解釈の限りない可能性(=虚の透明性)を
生みだしているのに対し、バウハウスは明快な空間の明快な外被であり、
そのような意味性が見当たらない。
■つまり、
ギーディオンの比較だとアルルの女とバウハウス校舎は同じ効果を持つはずであるがそうではない。
「ちゃうやないか?」というわけです。
そこで実の透明性と虚の透明性というここでの概念を使って、
事態を整理し直してみようとする訳です(以下の比較)。
答えを言ってしまうと、バウハウス校舎が実の透明性で、
ガルシュが虚の透明性を持っています。
グロピウスのバウハウス校舎と、コルビュジェのガルシュの邸宅の比較
-
- 共通:
-
ともにキャンティレバーを使用し1階が引っ込んでいる。
水平連続窓を使用し、隅にガラスを回り込ませる事を重視した。
コルビュジェ:
-
ガラスの面に心を奪われる。
ガラス面を硬化し、一体化した面としての緊張感を持たせる。
- グロピウス:
-
ガラスの透明性に着目。
半透明のガラス面がゆったり吊り下げられるような表現をした。
バウハウス:
-
1階は盲壁(開口部がないかの如く)の様相を呈している。
骨組構造にはすぐ結びつかないずんぐりした柱を見せている。
これが建物の土台で、その上にスラブを乗せる
(スラブをガラスを透かして見せる=実の透明性)
というアイデアにとりつかれていた。
ガルシュ:
-
1階は横長窓で横を強調した垂直面で、上階を支える骨組として表現されている。
屋上のテラスの後退、ガラス窓の回り込み、1階部分の後退によってコルビュジェは、
一段後退したところに別の1枚の垂直面が存在する事をほのめかしている。
ここにケペシュの言うような虚の透明性が現れている
(物理的な面とほのめかされる面の双方がともに見える。相互貫入する2つの像)。
内部の作りはこれら暗示された垂直面とは異なるけれども、
例えば2階の平面図を見ると、
浅い奥行きを持った細長い空間がやはり暗示されている事が分かる。
更に、テラスの背後や階段の手すり、
二階のバルコニーなどにより別の複数の垂直面が見え、
全体として次から次に浮かび上がってくる横に広がった空間が暗示される。
この空間の層状システムは、
レジェの「三つの顔」の3つの主要部分の前後関係と対応づけることが出来る。
水平な面を考察してもやはり、
レジェの画面に相当する空間の奥行き・広がりを指摘することが出来る。
この家にはケペシュが透明性の特徴とした空間の位置上の矛盾が存在する。
事実と暗示の弁証法があり、解釈には絶えず揺れが生じる(知的な洗練)。
バウハウス:
-
上述のような知的な洗練は殆どない。
材料の美学(バウハウス)と知的な洗練は相そぐわない場合が多い。
モホリもグロピウスも材料をその特質に合わせて使うことに関心があったといえる。
両者ともデ・スティルやロシア構成主義の刺激を受けたが、
パリ風の手法を取入れようとはしなかった。
キュビストの浅い空間の発見がなされ、
均等に活性化された画面という概念が良く理解されたのはパリにおいてだった
(虚の透明性)。
パリ以外では画家達はモホリ同様、
画像に明確な空間的序列を与える必要を殆ど感じていなかった。
彼らは幾何学的平面構成としてのキュビストの画像は受け入れたが、
空間の抽象化は否定している。
バウハウス校舎も板状に折れ曲がり、層状の空間としての読みを示唆するのだが・・
バウハウスでは階毎に建物群の示す方向性(流動性)があって、
それが一階と主階で異なっている。
しかし斜めの視点からこの矛盾を解消させ、
その動きに有意の質の差異を賦与しなかったので、多義性は生じなかった。
-
(モホリがキュビストの正面性を避けたようにグロピウスも正面性を避け、
斜め方向の視線がこの建物では重視されいてる)
従って、空間の層状構造を殆ど感じさせない。
「空間の位置的矛盾」は殆ど見られず、
顕在あるいは潜在する空間の間の葛藤を経験できないのである
(つまりバウハウス校舎では虚の透明性は生じない)。
■しかし今までの比較は、
多棟式で規模の大きいバウハウス校舎と小規模なガルシュでした。
これは不公平かもしれないという事で、
ロウは次にコルビュジェの国際連盟案を持ちだして来ます。
バウハウスと同様に多棟式で規模の大きいコルビュジェの国際連盟計画案と比較する
-
バウハウスが風車状なのに対し、国際連盟は縞状構成を示している。
二棟の事務局、玄関の車寄せ、
大会議場のホワイエやガラス張りの側壁によって横軸が強調される。
それは奥行きを却って強調してしまうので、
木立、園路、建物そのものの動きで短軸(奥行き方向)を幾つも切断し、
横軸を暗示させている。
全体として横軸と短軸の壮大な葛藤の場となっている。
もしも短軸に沿って人が会議場にアプローチしたとすると何を感じるか・・
↓ (木立のスクリーンで縁取られた主入口)
↓ 側面の事務局と前面(手前側右)の庭園との関係
↓ 横断路と事務局の中庭の関係
↓ (木立のさし出す低い傘の中)
↓ 書庫と図書館の突出部の延長
↓ (低いテラス。前に入口の車寄せ、その前にある空間の亀裂)
↓ 庭園とその向こうの湖水(右側)
↓ (振り返ると)空間の横滑り。通ってきた道路は、横軸に沿う壁を串刺しにしていた
このような成層作用は、後期キュビストの伝統である虚の透明性の本質である
バウハウスには完全に異なった空間概念が見出される。
コルビュジェは観察者の立つ場所をいくつか設定している
バウハウスでは視点は限定されていない
国際連盟では出隅や入隅が「非物質化」され、空間が水晶のように透明である
バウハウスでは「水晶のように透明なもの」をつくりあげているのはガラスである
(*国際連盟ではガラスの透明さが空間を透明にしているわけではない)
国際連盟ではガラスは太鼓の表面のようにぴんと張りつめた面を形成している
バウハウスのガラス壁面は「解放化のプロセスに寄与している」
国際連盟には、鋭い対立を解消しようとする意志はみじんも無い
国際連盟の建物はダムとなり、空間を貯めてせき止め、トンネルの中を通され、
水門から放出されて湖に流れ落ちる
■この建物群の背後は湖水です。
だからこの例えが生き生きしてくるのですね。
-----------
これらの議論は、属性の特徴付けに役立て、
属性の混乱に対する警告として役立てばと願って書いたものである。
どちらが良いと言っているわけではない。
■どちらが良いと言っているわけではないと
ロウは書いていますが、
読んだ人はコルビュジェの勝ちだと誰しも感じます。
そして実際、
ここで言う虚の透明性を一つの価値観として空間設計する建築家が現れて来るのでした。
《戻る》

(建築のページへ)