帝冠様式を見直す(京都市美術館を例にとって)






<解説>この小論では、帝冠様式を「コンクリート(RC)という 当時の新しい素材・構法でそれまでの日本意匠を引き継ごうとする、 その当時なりの文化的混淆の試みの一つ」と位置づけます。 そして建築意匠の本来のあり方からモダニズムの批判を試み、 統合された新しい歴史観を打立てる事を目論んでいます。 何も私はモダニズムを全く否定している者ではありませんが、 この小論ではとことん一つの立場を貫く試みをしています。

学生の方に申し上げますが、これを写すならちゃんと出典を明記して下さい。 (これを参考にした為にひどい評価を受けても当方は関知しませんのでそのつもりで。)


本論は1ページにまとめてありますから、転送スピードの遅い方は、 画像ロードの後に電話を切ってゆっくりお読み下さい。 注を入れて約8400字あります。





1.プロローグ

京都市美術館は子供の頃から知っていた。それまで別段なんとも思わなかったこの建物が、 ある時点から私にとって特別なものになった。 それは、私がまだ建築の事など何も知らなかった青年時代の事である。 何かとても新鮮に見えたのであった。 普段、私達の周りの建物というと変哲のない四角いコンクリートの塊と決まっているのに、 この建物は寺社のような屋根を載せている。 それも、単に寺社の形ではなく、全然別のものでありながら和風である。 何か多国籍料理のような取り合わせの妙が感じられた。 どうしてこういう面白い事を他でももっとしないのだろうか?、 と素朴に思った。私は非常にシンプルに好感を持ったのである。

やがて大学に入り直した私は建築を勉強し始めた。 そこでこの建物が「帝冠様式」と呼ばれる事を知った。 しかしなぜこのような建物はもう建たないのか?、という素朴な疑問は解けないままであった。 何か曖昧ではあるが、近代日本建築史における<継続>への指向と<断絶>への指向の せめぎ合いの様なものが、疑問を解く糸口のように思え始めた。 戦後日本でも盛んになったモダニズムは、それまでの歴史主義・折衷主義からの 「断絶」を前提とした運動であり、それに対して帝冠様式は人々の歴史的「継続性」を 求める意識の発露の一つであったのではないのか。

私はこの疑問から出発し、 私なりに建築史、建築思潮における<根本的状況>を浮かび上がらせ、 その中で京都市美術館を含む帝冠様式を位置づけてみたいと思った。 その作業の中で私はモダニズムと対立しなければならなかった。 以下、2章で京都市美術館とその成立の状況について触れ、 3章で私の考え(根本的状況の認識)をまとめる。その後で総括をしてみようと思う。



2.京都市美術館

所在地:京都市左京区岡崎円勝寺町
竣工:1933(昭和8年)
設計:前田健二郎のコンペ当選案を基に京都市建築課が実施設計
施工:大林組
構造:RC2階建

平安神宮とその南側一帯は、明治28年開催の平安遷都千百年記念祭と 第四回内国勧業博覧会の会場跡地を、京都市が岡崎公園として整備したものである。 京都市は、昭和天皇の即位記念事業としてここに美術館の建設を決定し、 市民から100万円の寄付が集まった。 そこで「周囲の環境に応じ、日本趣味を基調とする」ことを条件として設計競技が行われ、 前田健二郎の案が採用された。これを基に京都市建築課が実施設計を行った。

京都市美術館 北西外観 京都市美術館 正面外観


寄付により出来たという事は、それ程までに昭和天皇の即位を慶び、 ここにメモリアルな建物を建てたいという人々(一般市民)の意志が強かったという事だと思う。 勿論、京都にふさわしい美術館がそれまで無かったという事情もあろうけれど、 人々は記念になるような美術館がここに欲しかったのである。 落成式には寄付をした人を始め多くの人がより集い、 天皇を戴いた日本文化のモニュメントとして、新美術館落成を祝い喜んだ事であろう。 美術館の意匠は、人々が共有する日本文化と、その許に民族として今ある事の喜びを、 まさに体現していたと思えたに違いない。

京都市美術館 屋根部詳細 京都市美術館 中央大階段とホール


写真を参照されたい。 正面の飾り屋根は比例的に小さく、 和風建築における千鳥破風というものをシンボライズしたものとなっている。 この破風は螻羽瓦をもつ本格的なもので、 建物のアクセントとして重要視されている。 周回する壁の立上げ方と屋根の受け方は、 「日本趣味」を越えて大陸的(中国的)なものまで感じさせる。 (ちなみに京都市美術館と東京国立博物館(渡辺仁設計)を比べると、 東博では全体が屋根表現に覆われていて、 同じ日本趣味(東洋趣味)でも表現方法がかなり違う。) エントランスを入ると、堂々とした大階段が正面から回り込む。 1Fはやや狭苦しさもあるものの、2Fは格天井の広々したロビーとなっている。 2F大展示室はトップライトにより採光され、やわらかな自然光の中で展示物を見ることが出来る。

京都市美術館
トップライトの付いた大展示室


3.根本的状況認識

ここでは私なりに、日本近代建築史と近代建築思潮を、通常とかなり違う目で見直してみたいと思う。

3.1 「建築意匠」とはそもそも何か

近代モダニズム以前は、 世界のどの民族・地域においても 建築(住居も神殿も含め)は「昔からこうやって作ってきた」というものであった。 過去からの継続性があって、人々はそこに安心して心を預ける事が出来、 また生活感情を投影する事が出来た。 建築の形態を決めていたものは土着の材料や構造技術であった。 それらの制約の上で如何に固有の美しさを表現するかという側面、 そして意匠の継続性から生まれる形態と結びついた生活実感という側面、 この2つが合わさって建築意匠を構成していた。

   建築意匠 ←−− 固有の美しさの表現
        ←−− 特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味

例えば「床の間」というのはそれ自体簡素で美しい形をしているが、 床の間が人々にとって重要だったのは床の間が歴史的に担っている意味(表象的意味)が そこにあったからである。 だから逆に江戸時代には町人が勝手に床の間を作らないよう規制があったし、 戦後、床の間廃止を積極的に謳った人達が居たが、 床の間は別の形に変化して消えなかった。 ヨーロッパの建築様式史をひも解いてみると、 ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックと見ていっても、 或る新しい様式が生まれるときは、人々の生活意識や意匠にかけていた表象的意味が、 次の様式に時間をかけて引き継がれ、 また新たに生まれたりしている。 次の様式もまた人々が安心して心を預けられる形態であった訳である。 逆に、そのようなスムーズな移行が出来た場合にしか、新たな様式は生まれなかったと思われる (注1)

建築意匠が、このように単に意匠であるだけでなく、 人々の生活意識と繋がった時代精神的な表象であったことが、 建築の力強さの真の源泉だったのである (注2)



3.2 近代モダニズム批判

しかるに近代モダニズム運動は、コルビュジェなどの建築家が音頭を取って進めたものであり、 それ以前の様式の変遷とは決定的に違っていた。 上の図式で言うと、新しい素材(鉄・ガラス・コンクリートなど)が生み出しうる 「固有の美しさの表現」の追及ばかりが先行し、 それ以前の建築に対し人々が持っていた「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」が 継続しなかったのである。 例えば1923年にコルビュジェとA・ペレの「窓論争」があったが、 ペレが「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」の立場にあったのに対し、 コルビュジェは意匠や合理性のみから反論した。 いや、コルビュジェも人々の生活実感に言及はしたが、 それは合理性から帰結された観念的なものにすぎなかった。 更に決定的なことは、近代モダニスト達がそれまでの歴史主義・折衷主義からの「断絶」を謳い、 それを自らの運動の前提に据えた事である。 新しい素材を使って構造合理的な建築を作ろうとするあまり、 過去から断絶し、上の図式でいう建築意匠としての条件の半分しか満たさないものが、 建築家の「建築的正義」として喧伝されたのである。

これは、私は建築家の一種の傲慢だと思う。 人々の意識を顧みずに、自分たちでどんどん新たな試みをすれば良いと思い込む事は、 一種の選民意識である。 そして現代は、この建築家の傲慢さと選民意識の支配する時代となった (注3)。 この「傲慢さ」と、工業的材料が大量安価に作られるという事実から、 建築は19世紀からのほんの数十年のうちに「国際様式」 すなわち最も土着でないものになった。 土着の様式が豊かに持っていた「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」は 失われたままである。 私にはこれで話が終わるとはどうしても思えない。 現在の建築の行詰まりは、 人々の意識側面を切り捨ててきた建築家のひとりよがりがもたらしたものではないだろうか。



3.3 日本の近代と、混淆・折衷の様式の位置づけ

明治維新以来の日本は洋風建築を貪欲に摂取した。これは時代の必然であったと同時に、 人々が洋風建築に時代の開化という新たな「表象的意味」を見いだしたからでもある。 しかし従来の和風建築が担っていた表象的意味も、 圧倒的に強く残っていたのは言を俟たない。 そのような中で、それまで生活実感・表象的意味を担っていた意匠(日本の意匠)を、 新たなスタイルに接ぎ木する試みが行われた。

すなわち古くは開智学校のような素朴な折衷があり、 やがて武田五一のようなデザイン的折衷が生まれた。 これらは皆、新しい建築(西洋建築)に、 過去からの継続性を写し込もうとする努力の現れと言える。 帝冠様式やその当時行われた日本趣味の建築も亦、 コンクリート(RC)という新しい素材・構法でそれまでの日本意匠を引き継ごうとする、 当時なりの一つの文化的混淆の試みであったと言えるのである。

これらの折衷・混淆様式の可能性について考える上でまず、 文化的混淆というものが古今東西の歴史において 新しい芸術や建築の様式を生み出す有効なきっかけであり得たという事を指摘しておきたい。 ある辺境が別の様式を受け入れる時には必ず混淆や折衷が生じていた。 古代ローマ建築は、ギリシャのオーダーと辺境のアーチ技術の混淆から生まれた。 ここで特筆すべきは、ギリシャ人にとってオーダーとは建築原理そのものだったのに対し、 ローマ人はオーダーを「貼り付ければ良いもの」と受取り著しく異なる建築を作った事である。 しかしその事ゆえに「ローマ人は元の趣旨を理解しなかった」と責める者はいない。 混淆とは元来そういうもので、 ある民族が他民族の所作を都合で勝手に選択・変形した結果生まれたものに 新しい生命が宿るのである。 これは特に芸術・民芸の歴史で多くみられた。

近代においては、このような建築意匠の混淆や折衷は批判の的となったが、 それは完成された様式にのみ目を奪われるオリジナル至上主義や、 新たな創造を建築家に求めるモダニズムの教条と相容れなかった為である。 しかし棟梁や一部の建築家、一般の人々の意識のレベルで行われる混淆・折衷は、 洗練だけ追い求める建築家一般の論理を越えたダイナミズムを持っている (注4)

最後に帝冠様式に触れるが、 帝冠様式の意匠に軍国主義性・国粋主義性が表われているとする見方は、 主客が転倒している。 ファシズムは、過去からの継続性を求める人々の気分を利用し倍加したかもしれないが、 帝冠様式の本質がファシズムなのではない。 ときどき帝冠様式の意匠に、 戦前日本のおどろおどろしい全体主義の雰囲気を読み取ろうとする人がいるが、 それは決して帝冠様式建築自体が持つ特質ではない。



3.4 日本の戦後と、モダニズムを介した日本らしさ

戦前・戦後の切替りは急激に起こった。 この間の最大の特徴は民主主義による過去から断絶した意識転換が行われたことであろう。 この断絶性が、やはり過去の歴史主義・折衷主義から断絶して成立した 近代モダニズムのスタンスと共鳴した。 建築界では、民主主義という「正義」がモダニズムという「正義」と同一視されるに到った。 例えば法政大学校舎(58)は古い権威から脱却した新しい自由な学校の象徴であった。 「断絶」への指向は、戦後の日本の再出発にはまさにぴったりであった。

その後の経過については2点指摘したい。 一つはモダニズムの教条が浸透した為に、 単に屋根を模倣するような歴史主義的かつ非・構造合理主義的な日本趣味建築は否定され、 非常に象徴的な、コスモポリタニズムに貫かれた表現が現れた事である。 例えば丹下健三の長崎平和公園(52)、東京カテドラル聖マリア大聖堂(64)である。 しかしその背後には、敗戦によって生じた国粋主義への 暗黙・無意識的な強いタブーがあったように私には思える。

第2点めとして、一般の大衆的建築においては、産業の発展と共に、 モダニズムが産業合理主義的な態度に取って代わられてしまったという事が挙げられる。 高度成長にしか目が向かず、本レポートで言うところの「固有の美しさの表現」もなければ 「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」も継承しないビル群が 既成事実として町を覆い尽くした。 同様の安普請の一般的住宅・集合住宅がはびこった。 この事は、戦後の偏った合理主義による都市開発と共に、 日本近代の建築の歴史の中での最大の痛恨事であるように思う。 そして、これらの凡庸な戦後建築は正にモダニズムの申し子(直系)なのであった。

モダニズムからは同じ丹下の香川県庁舎(58)のような日本的表現も生まれたけれども、 しかし一般的な話として、モダニズムには過去からの断絶性と教条主義的な創造論 (=過去と関係ないものを建築家の創意で作りましょう)によって 「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」を効果的に抹殺する 疎外のメカニズムとしての一面がある事を、私としてはここで指摘しておきたい。



3.5 帝冠様式が持っていた可能性

ここで、帝冠様式を位置づける為の端的な思考実験を行ってみよう。 もし日本が国力の大きい19世紀の大国で(列強に肩を並べていて)科学技術も持ち、 自国の伝統にもっと自覚的に誇りを持っていたとする。 すると西欧建築の摂取の仕方も全く変わっていたであろうと思う。 新素材への反応も全く異なっていて、例えばラブルーストの国立図書館のように、 在来建築の小屋組みを鉄骨に置き換える試みのような事もなされていたかも知れない。 (これは単に材料を変えただけと批判されそうだが、しかし古代ギリシャ神殿も、 木造だった時代の神殿の作り方をそのまま石に置き換えたに過ぎない。) そして、もし西欧のモダニズムに影響されずにコンクリート技術を発展させていたならば、 和風在来建築を範に取った、現在のRCと異なったコンクリート混構造が生まれていて、 構造合理的な面も持ち合わせたかも知れない (注5)

このように構造上の新局面を開いて、しかもそれを支持する国民・建築界の機運があれば、 帝冠様式の趣旨を受け継ぐ重要な建築および建築様式が生まれていた可能性もあると思う。 私は構造についてまだ充分に論じられないが、 しかしコトは構造の問題だけでなく国民・建築界の機運の問題であるように思う。 残念ながら日本は西欧文明と十分に距離を保って対峙する事が出来ないまま来たので、 国民・建築界の機運も生まれなかった。 さらに周知の戦争とその後の展開があったので、 そのような様式が生まれる機会は完全に途絶えてしまった。 しかし、この思考実験から明らかなように、 現在の帝冠様式に対する評価は全く歴史相対的なものに過ぎず、 全く違った成り行きを呈していた可能性もあったのだ、という事は忘れてはならない。



3.6 その後の「帝冠様式」

帝冠様式の様に伝統的意匠をRC(コンクリート)に引継ごうとする建築は 戦後どうなったであろうか。 それを詳細に論じる事は本論の範囲を越えてしまうが、 一つ言えることは伝統的表現が成立する脈絡が非常に限定された、という事である。 例えば寺社の増築や、伝統的表現がどうしても必要な能劇場の設計などである。 「伝統」という文脈に封じ込められている。 一回一回のそういった建築は散発的で、そこには<流れ>というものがない。 博物館の陳列棚に並べられるかの様に、 それらの建築は私達の実生活・生活実感から隔離された存在となっている。 生きていた伝統が、括弧付きの「伝統」になって陳列される存在となった。 もはや戦前の帝冠様式が持っていた「引継ぐ」というような文脈は全く存在しない。

更に、ポストモダニズムが「伝統」の意味を変質させた。 周知のようにポストモダニズムは伝統を<参照>する事はある。 しかしそれは真に意匠が持っていた内実を継続しようとするものではない。 例えば私の住むここ京都において、川崎清の京都大学文学部博物館(86)や 内井昭蔵の国際日本文化研究センター(94)の一部(写真下)は、 ポストモダニズム的な趣向にもとづく形態の戯れに過ぎない。

京都大学文学部博物館(86) 国際日本文化研究センター(94)(部分)


4.総括

京都市美術館は「帝冠様式」の建物の一つである。1930-40年頃に、 このような伝統的形態(とくに屋根)をテーマにした作品が幾つか作られたが、 戦後は帝国主義への反省に伴い顧みられなくなった。 それに代わり終戦後は、 近代モダニズム的意匠が人々の民主主義への意識転換と呼応するように広まった。 そして帝冠様式はモダニズムの立場からも批判され、 二度と同じような趣旨の建物が作られる事はなくなった (注6)

京都市美術館は天皇と日本文化を<コンクリートの建物で>祝う為に生まれた。 一見すると、その時代だけの要請に基づいて作られたように見えるけれども、 そのもっと根底のところではこの建物は、 コンクリート建造物に日本旧来の建築表象 (「特定の意匠に結びついた生活実感・表象的意味」)を移乗し生き永らえさせる、 当時なりの折衷・混淆の試みの中で捉える事ができるのである。

「歴史の中での京都市美術館」という事を考えるとき、京都市美術館の意匠が、 かくも人により違う見方をされて来た事に今更驚かされる。 (この建物は物理的にも確かに古びているけれども、 その点については私は殆ど気にならない。) 時間とともに人々のこれを見る目が、捉え方が変わった。 そして現在、私のようにこの建物を何の先入観もなしに<新鮮>に見た人も、 きっと居るに違いない。 これからも、この建物は、私達自身の持つ建築への思い(或は建築というものへの定義) によって見え方を変えるであろう。 京都市美術館は、私達が心のどこかで忘れようとしても決して忘れることの出来ない 「日本人であること」と建築の関係を、これからも控えめに訴え続けるのである。

重要なのは、継続性に基づいて人々が「安心」を託していた形態的特徴 (その心理的価値)に相当するもの(或いは匹敵するもの)を、 現代において建築がどうやって提出できるなのか、という点である。 それが曖昧である事は、 「今という時代に建築を作るという事」自体の意味が曖昧であるという事に他ならない (私の建築意匠の定義を思い起こして頂きたい)。

その事は、実は建築の側からだけ考察したり工夫したりすれば済む問題ではない。 「3.6 その後の「帝冠様式」」で書いたような 「伝統」が陳列物になってしまった問題は、明らかに、 一般的な人々と伝統との関わり合いの質的変化が関与している。 建築を考える為に、いま人々の意識のあり方を知る必要が出ている。 その上で、人々の生活意識と建築の統合という、 誠に困難な問題が解かれなければならない。 その力強さを取り戻す為に、建築はいま一度<生きた表象>を生きなければならないのである (注7)



本稿(原稿部分)の著作権は、全て本HP管理者に帰属します。


この小論に対する評価




参考: 「近代名建築京都写真館」福島明博、1996、日本機関紙出版センター
「近代京都の名建築」京都市文化観光資源保護財団(著、出版)
「建築MAP京都」ギャラリー・間、1998、TOTO出版
「伊東忠太動物園」藤森照信・増田彰久著、1995、筑摩書房
帝冠様式ネットワーク(http://www.teikan.net/index.ja.php3
「日本近代建築の歴史」村松貞次郎、1978、NHKブックス
「<現代の建築家>丹下健三 SDハードカバーシリーズ」1980、鹿島出版会
京都工芸繊維大学「西洋建築史」2000年前期講義記録


注1: 詳細に論じる事は本論の範囲を超えているが、 このあたりの事は本論が目指している立場からすると、 モダニズムに端を発した現代建築思潮を批判する為に非常に重要な研究課題であると思っている。
注2: 本論で「表象」となっているところは、最初は「記号」と書いていた。 しきたりや規範を備えた時代の<継続>性、それを担う人々の共同性・共通性、 そのもたらす共通気分が建築意匠を通して体感され得るような状況下においては、 人々に共通してもたらす情動的なものをシニフィエに見立てて、 建築を広義の「記号」と呼びうると考えた。 しかし「記号」と書くと、一般には「壁に付いた山椒魚のマークは‥王家の事である」 というような、非常に単純で平板な記号の対応関係を連想しがちなので、全て書き換えた。 また、そもそも、人々が感情を「投影」するきっかけを記号と呼びうるのか、それも微妙だと思った‥‥。
注3: ヨーロッパ建築の歴史において、 建築家が自らの<個人的な>芸術的霊感に基づいて活動するようになったのはルネサンスからである。 「選民意識」は既にこの時用意されていた。 しかし、19世紀に到るまで、建築家は<様式>によって人々の意識との繋がりを保ってきた。 現代の建築家には、それに匹敵するような人々の意識との繋がりを保証するものが無い。
注4: 折衷・混淆を通じて、 如何にして人々の「特定の意匠に結びついた生活実感・記号的意味」が新たな形態に伝わり、 また創発されてゆくか、そのプロセスを現象学的に辿って明らかにすることにより、 建築家の狭い見方による批判を乗り越える可能性があるのではないかと思っている。
注5: これに関連して、今回調べられなかったが、 伊東忠太は震災記念堂(30)や築地本願寺(34)によって、 新しい素材・構法と日本文化をつなぐ試みを行っていた。
注6: それでも、戦後に似たような建物が建った例として、 これは日本ではないが台北の中正紀年堂(80)(写真下)を挙げる事が出来る。 中正紀年堂と京都市美術館は共に、有志の寄付がベースとなって建てられ、 特定の人物に対するメモリアルな建物である、という共通性がある。 過去からの継承を表すために人々が望んだ両建築の形には、 期せずして意匠的な類似性があるように思う。 共に外壁の立上げ方に大陸的なものが感じられる。 気になっていたのでここに挙げておく。
注7: 本論文中、「記号」「記号」と書きすぎた気がして実は反省している。 というのは、「記号」と書くと何か有徴で(つまり目立って)、 特別の意味を匂わせる何か変ったもの、というニュアンスで受け取られる可能性があるからだ。 私はそういう意味で「記号」と言っているのではない。 そうではなくて、ここでは、生活意識の中に溶け込んで知らず知らずに深い意味性を我々に 与える、生活背景的なものを意味させようとしている。 最近「偽装するニッポン」(中川 理著)という本を読んだ。その中で、バブル期を挟んで 日本全国で建てられたおとぎ話的な "偽装した" 公共建築を何度も「記号」と呼んでいる のに出くわした。それも「記号」であるが、ここで言う「記号」と全く意味が違う ので間違わないで欲しい。その本にも書いてある通り(P.115)、京都市美術館 と偽装した城郭建築は全く別物である。

中正紀年堂(80)





この小論に対する評価

皆さんお気づきかも知れませんが、この小論はもともと 私が学校に提出したレポートで、それに多少加筆したものです。 本論のもとになったレポートに対して、講師の評価が出ました。 励ましの為にかなり好意的に見てくれているとは思いますが、 ご参考までに載せておきます。

日本における近代建築のアイデンティティを考える、 とても力のある論考だと思いました。

戦後における帝冠様式=ファシズム建築という図式によって 屋根の造形がダブー視していったことは、今や相対化されているとは思いますが、 イデオロギー的な見方をこえた建築史や建築論はまだまだ未開拓です。

1つ疑問なのは、モダニズムそのものにそれほどの強い力があったのか、という点です。 ことに日本の場合、むしろ産業構造の強さに原理性を見つめることなく流されていったように思えるのですが、 いかがでしょうか?

広がりのある視点をさらに深めていかれることを期待します。
(講師:松隈 洋 助教授)







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