理想的ヴィラの数学(要約)
これは、コーリン・ロウ著『マニエリスムと近代建築』の「理想的ヴィラの数学」の要約です。
読み合わせ会の為に私が作ったレジュメに、
赤色で筋のつながりを書き加えたものです。
「理想的ヴィラの数学」は1947年頃にロウが書いたものです。
彼がアメリカに渡ったのを機に、この論文などが元になって、
一つの図像的なスタイル分析(形態分析)がアメリカに定着しました。
ロウ自身の意図がそこにあったかどうかはともかく、
例えば彼の弟子で彼に影響を受けたアイゼンマンの図形主義などがこれによって生まれ、
スタイル的な見方として日本にも影響を及ぼしました。
原著(彰国社の『マニエリスムと近代建築』)を読む前に見ておくと、
筋が掴みやすくなるかも知れません。
但し本ページには写真や図版は一切ありません。
そういうのは、彰国社の『マニエリスムと近代建築』の写真・図をしっかり見て下さい。
最後に、本稿に関してはコピー、改ざん、転載、配付などが自由です。
しかし著作者の詐称は絶対にしないで下さい。
マニエリスムと近代建築「理想的ヴィラの数学」レジュメ
パラディオのヴィラ・カプラ・ロトンダ
-
集中式建築の理想型とされ、数学的、抽象的で正方形平面を持つ。
概して記念碑的。
建物の幾何学的ヴォリュームとの自然の対比があった。
心弾む小さな丘の上にあり、果樹園があり、川と高台に挟まれ眺望が良い。
当時の理想的ヴィラの生活では領地は天国の縮図であった。
そこで貴族達はローマ古代世界の想像の再建を図った。
コルビュジェのサヴォワ邸
-
盛り上がった広大な草原にある。
果樹園があり眺望が良く、人々は田園生活を求めてやって来る。
建物は叙情的で効率の良い生活の背景となる。
本来の使い方からは田園的と言いにくいけれども、
そこには「ヴェルギリウス(ローマの詩人)の夢」が生き続けている。
*おおよそかけ離れていると見られるこの両者は、
田園的風景の中の叙情的な生活の舞台となるべく共通したところがあると分かった。
■いかにもローマ、つまりロトンダの趣向を表わす「ヴェルギリウス」という言葉が、
コルビュジェによってサヴォワ邸にも用いられたのをロウは見逃さずに、
本論において両者を繋ぐ暗示的キーワードとして用いています。
即ち両者の共通点=比例の美というものを暗示させようとしたのです。
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しかし上2者の比較より下2者の比較の方が遥かに特徴的
- パラディオのヴィラ・フォスカリ(マルコンテンタ荘)
- コルビュジェのヴィラ・シュタイン(ガルシュの家)
(相違点=ムード:心理的・物理的重量感←→時には船や体育館でありたい住宅)
■心理的・物理的重量感に訴えるマルコンテンタと、
時には船や体育館でありたいガルシュ邸。
こんなに雰囲気の違う両者を比較するのに一体何の意味があるのか?、と誰しも思うでしょう。
しかし驚くべき共通点(以下)があるのです。
主な共通点
- 単一のブロックでできている
- 間口を8とすると奥行き5.5、高さ5の比率がある
- よく似たベイ構造(柱で囲まれた単位構造)
2と1が繰返される空間間隔のリズムがある(ファサード)
- 前後にも3分割された支持体の列
但しコルビュジェは前後のキャンティレバーに関心を移している(分散的で均質化)
パラディオは中央部の支配を強調(集中的でハイアラキーを持つ)
■共通点はP.10の図9を見れば一目瞭然です。むろん構造はそう簡単には比較できません。
ロウは構造(に関する両建築家の見解)の相違をすぐに挙げています。
構造の相違
- パラディオ:平面のシンメトリー(当時教義として受け入れられたモチーフ)を構造でも
正当化しようとする。建物の各階でほぼ同じ平面を繰返す必要がある
- コルビュジェ:構造は、デザインにかかわる形態エレメントの基本であると主張した。
→五原則、独立した骨組み、作り付けの収納などを列挙
- 両者は構造に強い主張を持つが、その幾分かは個人的なやむを得ぬ事情によるであろう
(*時代的な事情もあったので、彼らの主張の相違をそれ程追及するには及ばない)
■両建築家は構造に関して確かに全然違う見解を持っているのですが、
これらの見解の幾分かは時代におけるやむを得ない事情があったに違いない、
とロウは述べて、両者の見解を相対化し、実はあまり本質的ではないとほのめかします。
主階(地面から2層め)の特徴
- 両者ともに一層上ったところに主階があり、階段で庭園と結ばれている
- マルコンテンタと比べた時のガルシュだけの特徴
- 階段の一方が90度回転している
- 玄関ホールに非シンメトリーな吹抜けがある
- テラスは部分的に内側に入り、柱を消している。主室との視覚的関係が曖昧となる
- マルコンテンタで顕著な十字形平面は、痕跡が残るのみ。
その交差する軸は断片的に示されるだけ(*中心性の同時的肯定と否定がある)
- マルコンテンタの主空間の中心性に対し、ガルシュでは主室、小図書室のZ型のバランス
がある
■このように、よく見るとかなり違うわけです。
違いを見てゆくことにより、両建築の本質的特徴が少しずつ浮かび上がってきます。
次にロウは側面(壁面)について観察します。
壁面の特徴
- マルコンテンタでは、
- 垂直性の強い開口を穿たれた伝統的な立体を形成している
- ポルティコにより中心部が強調される
- ダブル・ベイ(*柱が林立する部分)が上方のペディメントを支える
- 水平に三層構造をなし、基壇はやや張り出し、石の仕上の違いで重量感を出している
(*古典的でシンメトリーで中心性が強い)
- ガルシュでは、
- 「水平に伸びる一連の細片」という壁の概念に達している。
その事で関心を分散させ、ダブルベイ(テラス空隙)の広いスパンを目立たなくしている
- テラス側立面では、マルコンテンタのポルティコやペディメントに代わって、
テラスや屋上のパビリオンがあるけれども、
これらは立面全体では非シンメトリーな位置にある
- エントランス側立面にはペディメントに代わって最上階の要素があるが、
よく見ると非対称だし、それと開口部との関係も弱い
→中心性の同時的肯定と否定がある
■ロウはマルコンテンタのポルティコ、ペディメントとガルシュのテラスや屋上のパビリオンを
無理やり対応させる事により、ガルシュのデザイン的特徴を浮かび上がらせようとします。
同様にマルコンテンタのペディメントとガルシュ正面側の最上階の要素や開口部と対応付け、
ガルシュではシンメトリーさがあるようで無い、つまり中心性の同時的肯定と否定がある事を
指摘します。次に屋根ですが、これも両者がとても異なる部分です。
屋根の特徴
- ルコンテンタでは屋根はピラミッド上の架構で邸宅の大きさを増幅している(いわば加算的)
- ガルシュでは屋根は平坦で、邸宅を実際より小さく見せている(いわば減算的)
- しかし共に、下方の垂直壁面との関係が
(それぞれ非常に異なってはいても)等しく重要となっている
■次にロウは両者の根本的な共通点である比例について述べます
双方ともに比例への信念がある
- パラディオの時代:比例の法則が確立され、あらゆる自然にその比例が見られると考え
られていた。その比率で作った建物から、完全に客観的と信じられる美的満足を得られた
- コルビュジェも比例への信念を持っていたが、彼の建築には比類ない明晰さは無く、
一種の計画的な曖昧さがある。全体構成とその支持体の配列にのみ幾何学がある
機能主義とは科学的美学の主張であり、数学的パターン(比例)は偶然的で根拠が
無いからこの理論に反する事になる
■要するに、パラディオのように全面的に比例を推し進めにくい立場にあったという事をここでは
述べています。
- 両者ともC・レンにより「自然に拠る美」と定義された数学的規範を分かち合っている。
だから設計条件がこれだけ違うのに比較できるようなヴォリュームを持っている
■これが、両者が類似する根本的な理由です。
- コルビュジェはファサード(立面)に規則線や黄金分割を攻撃的に当てはめた
- パラディオは平面に数学的規律を適用した。
ファサード(つまり立面)は慣習による素材によって不純となる上、
イオニア式オーダーにより別の比例原理が持込まれている
(ちなみに「慣習」と「自然」の対立は、
彼のファサードが生まれる原動力となっていて示唆に富んでいる)
■コルビュジェは立面に、
パラディオは平面に比例を当てはめようとした事が述べられています
- 両者とも、比例の適応はあまり厳密ではない
■比例に似た事として分割があります。
この点では両者(の好み)はかなり食い違っています
分割の違い
- マルコンテンタでは、垂直(ポルティコと両側の壁で3つ)、
水平(基壇、主階、屋階の3つ)とも3分割している
- ガルシュでは、玄関側立面は4層ないし1層、
庭園側ファサードは4層ないし2層に分割している
■両建築家はともに、自らの理想と現実のギャップに苦しみます。
どう作れば理想の形になるか苦心する訳です。
そういう葛藤は、結局のところディテールをどう作るかにかかってきます。
ディテールにこそ、建築家の理念や置かれた状況が非常に良く現れるのです。
ディテールの苦心
- マルコンテンタ:
- 立体の幾何学的表情を和らげるために、アーチやヴォールトで垂直に引き
伸ばしたり、屋根やペディメントで対角線を導入している
- 組積造では平面が「麻痺」しているので、垂直方向に広がる表現が主に行われ、
断面・立面を複雑・巧妙にする。
■平面が麻痺しているというのはコルビュジェが使った表現です。
要するに自由にならないという事です。で、マルコンテンタでは平面が自由にならないから
工夫の余地は断面・立面にあった、という事です。
- ガルシュ:
- 組積造の「麻痺した平面」に対応して、コルビュジェのフレーム構造では、
断面がある程度「麻痺」している
■フレーム構造とはスラブと独立柱のRC構造を指します。
フレーム構造では薄いスラブを重ねてゆくという方法自体は変えられないので、
たまに吹抜けを作るとしても全体としては余り自由の効かないものである
(マルコンテンタのような断面の表情の豊かさはない)とここでは述べています。
→つまり双方とも、あまり自由にならない方の面で、
数学的規則性を表わそうとしたと言える
- フレーム構造では床〜天井が等距離なので、その間はどこでも均等な重要性を持つ。
従って絶対的中心が持てず、焦点は決して像を結ばない。
(マルコンテンタでは十字型広間に建物全体への手掛りがあるのに対し、
ガルシュではどの位置に立っても全体的印象が得られない)。
- コルビュジェは水平方向に伸びるという原則を受け入れ、
大胆な平面を展開する。
中心をたえず崩し、関心の的を分散し、端部にまで重要性を行き渡らせる。
- しかし水平の広がりは必ず端っこでストップするので、
水平的広がりを押さえ込むような逆方向の力も表現せざるを得ない。
- この両者の複合性により合成されたシステムでは、
隅々までエネルギッシュな緊張感が行き渡る。
- 同様のことがガルシュの立面にも言える。
■コルビュジェの作品において、
上で指摘された横方向の広がりと収縮という2つの力の緊張関係は、
非常に重要な要素だと言われています。
これはマルコンテンタには見られない特徴です。
ついでに言いますと、
コルビュジェの作品では色々な意味で緊張関係が解消されないまま表現されていると言われます。
「透明性 −虚と実−」においても、
内容は違いますが色々な曖昧なまま残された表現上の「含み」のようなもの(虚の透明性)が、
取り沙汰されています。
そしてそのような緊張関係が生まれる根本原因としての、
彼のようなモダニストの置かれた建築史上の立場が、
本書のタイトルにもなった論文「マニエリスムと近代建築」で考察されています。
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サヴォワ邸とヴィラ・ロトンダの比較
- サヴォワ邸とヴィラ・ロトンダは、上の2住宅より高名ではあるが、
構造的にも情緒的にも凝縮されていないので比較が難しい。
循環形式(四周が巡回可)のため取っつきやすく、優雅ではあるが、
ファサードに安易さが目立ち緊張にいささか欠ける。
- 平面でも立面でも、中心性の強調がパラディオの関心とすれば、
中心性の拡散がコルビュジェの関心であった。
- 対応がつくのは:
サヴォワ邸の屋上庭園の複雑なヴォリューム←→ロトンダの傾斜屋根やキューポラ
ロトンダの4面に突きだしたロッジア←→ブロックの内側に囲い込まれたテラス
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まとめ
■詳細な比較によって、
両者の建築のあり方がかなり浮彫りになりました。
- 両者ともプラトン的原型に近づこうとした(*比例のこと)。
住宅が立体の表象となった時、ヴェルギリウスの夢も果たされた。
そこには絶対的/偶然的、抽象/自然の衝突、理想世界と現実的急務のギャップがあるのだが、
それらがフーガのような競合的、強制的なものにより知的に架橋されている。
それは設計条件にある根本的な精神の矛盾を解決している。
■理想的比例そのものは「絶対的」だけれども、
それを建築に適応するその仕方は恣意的つまり「偶然的」なわけです。
理想を表わそうとしても現実のディテールはなかなかうまく行きません。
そういったお互いに両立しにくいものを建築家の才能で無理やり両立させてしまった、
という所に両建築の偉大さがある、という事を言っていると思います。
- パラディオは明晰な平面と、
秩序を示す為にシンメトリーに基づく慣習的要素の明快な構成と、数学を求めた。
彼の作品は本質的に適合させる事であり、彼の建築はローマを目指して作られ、
崇高な古代ローマ建築の一般的要素をすべて組込んだ。
彼は16世紀のルネサンス的形態を持つ古典主義者を自任し、
受入れた素材が普遍の妥当性を持つように適合させ、
古代の住宅の単なる復元をはるかに越えた意義深いところに達していた。
- コルビュジェも数学を崇拝し、時として歴史主義を見せた。
ロココ邸宅やボザールの人々のなした工夫を参照し、
ビザンチンや地中海のアノニマス建築を賛美し、その「機械的」側面においてさえ、
フランス人としての歓びを持ち合わせていた。
しかしその生きた時代の事情により、彼には特定の文明への思い入れは出来なかった。
その代わり、彼の作品には歴史への参照が括弧つきのまま引用された、
機知に富んだエレメントが散見される。
過去の象徴はその支配力を失っていたので、
パラディオの求心的・直接的な陰喩に対し、
彼の陰喩は分散的・類推的であった。
- パラディオにおけるローマのような単一の文化的理想はないが、
コルビュジェはあらゆる地域の些細事を名人芸的に採り上げる。
それらの間に生じ得る決定的な関係は何もなく、
参照物を相互に結びつける為にコルビュジェはそれらの置かれる立体を人為的に空白にしてしまう。
これにより感性は混乱するが、知性は対立的なもので満たされた中から問題の解答と、
理にかなった秩序を直感的に理解し納得するのである。
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補遺
- シンケルのアルテスムゼウムと後期コルビュジェのシャンディガールの議事堂を比較して、
本論を更に展開できる。
両建築には極めて類似した「方法」が見出せる。ミースとの比較も好奇心をそそる。
- 但し、おおよその構成を示し、違いを見極め、
分析的な戦略により変形するヴェルフリン流の視覚的直感形式の分析は、
あまりに厳密な分析に頼るために、図像とその内容を扱いきれないという事に注意すべきである。
しかし視覚的なものに訴えるというメリットがあり、
労をいとわなければ取っつきやすいと言える。
■ヴェルフリン流の分析とは視覚的なものを詳細に見て比較する方法の一つだと思います。
要するに細かくこつこつと比較してゆけば何か得られるだろうと述べています。
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